「立って居るものは親でも使え」
しばらく親に会っていない。
もう何年になるんだ?
使うどうのって話じゃないね。
さて意味。
「急な用事のある時は、
誰であろうと傍に立っている人に
頼んでかまわない。」
昔はもっともっと、親というものに対して
敬意をはらっていたのでしょう。
親ってのは恐くて強いものだった。
だからこんな言葉が出て来たんじゃないだろうか?
「親」というものは「使う」べきものではなかった、
ということ。
現代だと「親には甘えてよい」くらいの感覚で
「親だから使う」という人の方が
多いんじゃないかなぁ。
ま、ともあれ
「誰であろうと頼む」というのは
この波乱の日本において考えておいた方がよい気がする。
もし今地震が起きたら、事故が起きたら・・・
頼れる人はまさに「傍に立っている人」なんだから。
親だの他人だの先生だの偉い人だの、
仲良くないだの知らない人だの
関係ない。
「何かを頼む」ということは
冷静でいられる状況で考えれば
「信頼している人」であってほしい。
適任な人を選びたいと思うものだ。
でも、ホントに急な時って
そんなこと言ってられませんからね。
その時自分は頼る人であり、頼られる人になるわけです。
突然、「人を使う人」になるかもしれないし、
「人に使われる人」になるかもしれないのよね。
これって日頃からの覚悟が必要な気がします。
まったく知らない人に指示を出す。
これってなかなか難しいことだよ。
その人がどんな人か、何ができる人かを瞬時に判断して
わかりやすく指示をださなきゃならないんだから。
しかも、信頼していいかどうかはわからない。
まったく知らない人から指示を受ける。
これもなかなか難しい。
指示を受けたからと何でも間にうけて動くのは危険。
どの程度考えての指示なのか、
どんな知識を持って出した指示なのか、
自分なりに察知し、判断しなくてはならない。
結局、まずは自分である。
最初に頼りにするのは自分であり、
信頼すべき相手も自分である。
でも、
ひとりじゃどうにもならないことって
たくさんあるのよね。
ホントに。
頼み上手、頼まれ上手に
なりたいものです。
もっとしっかりしなきゃな、私。