「余地」
「まだ余地はあるよ」
なんて、よく自分に言い聞かせております。
ついね、何かと思い込んだりしちゃうと
「上手に諦める方法」や「なんとか納得できる理由付け」を
しっかり固めてしまおうと考えるくせがあります。
でも、その方法で諦めたり納得したりしても、
なーんかイヤな気持ちが残ったりしちゃう。
このイヤな気持ち分は
たぶん「諦めなくてもいいのかもしれない」
「ホントは諦めたくない」という
余地の部分なんだと考える。
ちょっと潔くないけど、
この部分、わりと愛おしかったりもするのです。
さて、1番。
「余っている、また、あいている土地。」
「余分の土地」
「あきち」
これは字のまんまですね。
自分でもっている土地なんてないから
「余っている土地」と私が言い切れる場所は
これっぽっちもないんだけど・・・
「あそこ余ってるよね?」って思っちゃう場所はけっこうある。
べつに余っているわけでも
余分なわけでもないんでしょうけどね。
余分かどうか、余っているかどうかってのは
やっぱり人によって考え方が違いますから。
「あそこあいてる」と思っても、
勝手にモノ置いたりしちゃダメですよー
2番。
「その事をなしうる機会」
「ゆとり」「余裕」
そうそう、この余地。
これがあるかって大事。
もちろんね、その余地ってなものが
悪い方に働くこともあるっちゃある。
法律の余地を見つけて行われる悪事ってなものも
よくありますからねぇ。
しかしながら、
この余地の部分をなくしちゃうと
いろーんな可能性を奪うことになっちゃうのよね。
余地から生まれるもの、余地から発展させられるもの、
けっこうあるんじゃないかな?
ルールや決まり事は
ある程度の人数が集まった時に
必ず必要なものだとは思います。
その中の誰かが
極端にイヤな思いをしたりすることのないよう
守るべきことってのはあるんです。
ただ、このルールや決まり事を
余地のない「完全なもの」とする必要はない。
「こうした方がいいんじゃないの?」
「このルールをやぶると何がどうなるの?」
「今日だけはこういうルールにしてもいいんじゃない?」
そんな、変化の余地をもたせることで
よりよい状態を考えることができるんだと思います。
最初からルールも決まり事もないほったらかしの状況ってのは
余地とは呼びません。
ある程度の制限があるからこそ、
その余地ってものが働くんじゃないかなと思います。
「ゆとり教育」なんてのがあったよね。
授業を減らしてゆとりある教育を!なんつって。
それ以前の教育を「詰め込み教育」なんて批判的に言ってたけど、
その状況にゆとりがなかったかと言えば
そんなことはないと思います。
詰め込む時間があったからこそ、
その余地となる部分が楽しめたんじゃないかなぁ?
「余地」と呼べる程度のゆとり時間だったからこそ、
「何しよう?!」って真剣に考えていたんじゃないかなぁ?
私、土曜日の半ドンが好きだったんですよね。
午前中授業があって、午後からお休み!
あの感じって、完全なお休みの日よりも
「余地」であり「余裕」であり「ゆとり」であったような気がするんです。
仕事でも、急いでいる仕事は
ヒマそうな人より忙しそうな人に頼んだ方が
早くできたりしますよね。
不思議なことに。
「余地」ってものはありすぎちゃぁダメなのよ。きっと。
ありすぎるとよく考えもせずに無駄に使っちゃったりするからね。
なかなか難しいですが
大変な時こそ、忙しい時こそ、カツカツな時こそ、
そこにあるわずかな余地で
イイモノを生みだすことができるのかもしれません。
さて、来週は
「無駄」から始めてみましょう。